故 人間国宝 「三代 徳田八十吉 耀彩」
現代九谷の彩りに新しい感覚を吹き込んだ三代徳田八十吉の「耀彩」(ようさい)。多彩な釉薬を重ね合わせることで、他に類のない上絵の表現を可能にしました。そこには初代八十吉より伝授された360年前の古九谷の色と、伝統を受け継ぎ新しいものに取り組む精神が深い輝きとしてあらわれています。
■耀彩(ようさい)
作品の色彩と輝きからも分かるように、耀彩とは「光り輝く色という意味」です。
徳田氏は祖父から伝授された九谷五彩の赤を除く四彩で作品づくりをします。同系色の釉薬を重ね合わせ、順に配置していくことでグラデーション効果をつくりだします。
三代八十吉氏は従来の九谷の特徴である色絵の概念を超え、自分らしい作品を作ろうと古九谷の色の確認を行っていたとき偶然発見したのがこの耀彩でした。新しいことに取り組むことでおこる失敗と新発見、微妙な釉薬の色彩変化と通常の上絵窯よりはるかに高い温度での焼成方法、これが耀彩を完成させる要因となりました。
■古九谷の五彩
鮮やかな彩色と、豪快な色絵で知られている古九谷。古九谷は江戸時代初期に焼かれた初期の九谷焼(*)のことで、その上絵には赤、黄、緑、青、紫の五色が使われていることから、この色を「五彩」と言います。古九谷窯ではこの五彩を使って多くの名品が焼かれました。
九谷焼を志すものの多くがその色を再現しようと長年努力してきました。祖父の初代八十吉は、誰も再現することのできなかった古九谷の五彩を再現することに成功しました。そして初代八十吉が亡くなる前に三代八十吉氏にこの古九谷の色の秘伝を伝授されました。
*古九谷はその時期の証拠・文献が非常に少なく、今でも多くの謎に包まれています。古九谷風は古伊万里の一様式とするものと、古く九谷の地で焼かれたものであるとする考え方で対立しています。
■初代八十吉
三代徳田八十吉の祖父にあたる初代八十吉は、古九谷の五彩(赤、緑、黄、青、紫)の再現に人生を費やし、なかでも深厚釉は九谷上絵を自由自在に表現するものとして称えられた。初代は優れた九谷焼の技術が認められ、無形文化財に指定されました。
また初代は古九谷の色彩を再現した作品を数多く残しただけでなく、その秘伝書とも言うべき色の調合方法を三代に伝授した。
■耀彩の色
徳田八十吉氏は祖父から伝授された九谷五彩に微妙な変化を加え、釉薬のグラデーションで耀彩の色彩表現します。しかしこの色には赤は含まれません。九谷の赤の和絵の具というのは他の絵の具と異なり平らでガラス質のないものです。そのため耀彩のような透き通った色は九谷の赤では表現するのが難しいといいます。
また耀彩の色は九谷五彩の4色をベースとする和絵の具の調合で行われます。和絵の具は調合することを前提とし、その調合によって微妙に色が変化します。この特性をうまく利用することで耀彩のような色彩表現が可能になります。
耀彩の色彩には和絵の具の調合のみならず、その焼成温度によっても微妙に変化します。失敗覚悟で実験的に焼成温度を上げてみたとき、意外な変化が吉とでることもあります。ふつう上絵窯では焼成温度は700から800℃までといわれています。しかし徳田氏は1000℃を超える高温で焼くことで釉薬が溶け出し、混ざり合うことを確認しました。これが耀彩の始まりともいえます。
■伝統への反抗心
九谷に良いものは多くあるが、三代八十吉氏は見慣れた九谷の色絵はやりたくないという想いが強かったといいます。一部の古九谷を除いて作りたいものは九谷にはない、と徳田氏はいいました。そこには九谷焼の技術で最高のものをもつ祖父初代八十吉との比較対象という想いがありました。九谷をやっている限り祖父の知識、技術と比較し続けると。
しかし、祖父の親しい友人であり、著名な洋画家でも合った日本芸術院会員の中村研一氏は三代八十吉氏にいいました。「九谷のど真ん中にいて、毎日のように九谷を見ている。それでいて九谷を作りたくないというのは、九谷を作っていく素質をもっている。だから自分の作りたい九谷を作ってみればいい。」そう言われて徳田氏は自分の九谷を作る決心を固めたといいます。
徳田氏がたどり着いた伝統という概念は、これまでの九谷の精神を受け継ぎ、自分らしい新しいものを作っていくというものでした。初代八十吉により解明された古九谷の色をもとに、新しい自分の世界を創造する。それが耀彩という形になってあらわれたのでした。
徳田氏の耀彩では色絵の具を使って特定の絵や模様を描くだけでなく、色が作り出す模様が表現するという色主体の新しい概念があるように思われます。今までの九谷の上絵に満足できずに、自分にあった九谷を作るという思いで挑戦してきました。それは九谷の上絵に新しい方向性を指し示すことにもなりました。